土木に興味を持ったきっかけは何でしたか?
高校までは愛媛県の松山で暮らしていました。高校の頃は化学や物理が好きで、大学進学後は社会開発システム工学科で社会基盤の構築を幅広く学びました。そして計画系の研究室で「防災」を学んだことをきっかけに、津波解析や避難時のシミュレーションに興味を持つようになりました。

港湾・内廣が磨いた
「根拠」と「強い意志」
休日はジムで筋トレをしたり、好きな映画を観たりして過ごす内廣さん。また年に1回、年度末の繁忙期が終わった頃、社内の電車好きの友人と旅行に行くのも楽しみ。文中に登場する愛知県の離島の他にも、飛騨高山・大阪などにも足を延ばします。
流域整備部
内廣 俊介UCHIHIRO SHUNSUKE
2014年入社
工学部 社会開発システム工学科卒
Part.01
土木に興味を持ったきっかけは何でしたか?
高校までは愛媛県の松山で暮らしていました。高校の頃は化学や物理が好きで、大学進学後は社会開発システム工学科で社会基盤の構築を幅広く学びました。そして計画系の研究室で「防災」を学んだことをきっかけに、津波解析や避難時のシミュレーションに興味を持つようになりました。
なぜ中央コンサルタンツだったのですか?
就職活動をする中で、大学で学んだ防災分野の知識を活かせる建設コンサルタント業界を軸に企業選びをしました。中央コンサルタンツは東京・名古屋・大阪などに拠点があって、かつ津波解析も扱っていること。そして会社訪問で見たオフィスに活気を感じたことで、良さそうな会社だと思いました。また、企業理念にある「人財」という言葉も良い言葉だなあと思ったことを覚えています。
オフィスを見た時、どこに活気を感じたのですか?
フロアの中に仕切りがなかったこと。「これは周囲の人にすぐ相談ができる環境づくりのため」と説明を受け、それが活気ある雰囲気に繋がっていることを感じました。
出身は愛媛県と聞きましたが、名古屋に来ることに抵抗はなかったのですか?
もちろんありました。大阪には知人がたくさんいたため、最初は大阪支店での配属を希望しようと思っていました。しかし当時、津波防災の業務は名古屋の本店でしか扱ってないと聞き、そういうことならと志望しました。名古屋に知人が一人もおらず、内心すごく不安でした。でも入社早々に同期たちと仲良くなり、その心配はすぐになくなりました。
Part.02
仕事を始めて、大学の頃とのギャップを感じたことはありましたか?
入ってすぐ、先輩の指示を受けながら図面の作成と設計計算を担当しましたが、最も印象的だったのは、どの仕事でも必ず「その根拠は?」と質問されることでした。例えば、ある構造物の耐震設計に関する検討を求められた仕事では、自分なりにいろいろと考えて「こうなります」と持っていくと、必ず「予算はどうなってるか把握できてる?」とか「なぜこの寸法になってるの?」など、私が出したすべての数字に対して、その根拠と理由を質問されました。
大学の勉強では、そこまでは求められなかった?
もちろん大学でも設計計算はしてきています。でもそれは、外力に対して防波堤が倒れるか、倒れないかという現象面の検討がほとんど。予算に関することや、寸法の根拠としてさまざまな基準の中から何を使うか、といったことまでは経験していませんでした。
建設コンサルタントの厳しさを実感したんですね?
はい。さらに工法検討に関しても、最終的にこの工法を選定した理由を先輩に示さなくてはなりません。コストや安全性だけでなく、施工時の作業のしやすさ、施工後のメンテナンスなど、総合的な視点が必要でした。自分の判断でいろいろ選択できる「自由さ」がある一方で、この選択が多くの人々の生命に直結していく「責任」を、仕事を通して感じるようになりました。
Part.03
「工法選択の自由」とは、どういう選択を任されることですか?
計画によって業務フローはほぼ決まっていますが、どういう工法を選択するかは私たちの判断に任されます。例えば、地盤改良工事では「地盤の固化」や「杭を打つ」など、多くの工法があります。その中で、条件を考慮しながら多くの可能性を検証し、最終的にどれを残すか、が私たちの選択であり責任です。
その意識は入社した頃から持っていましたか?
いえ、最初は先輩に言われたことをするだけで精一杯。2年目からは自分で考え、先輩に何度もダメ出しをされながら工法や寸法計算をやり直し、少しずつ覚えていきました。
先輩にダメ出しをされる中で、最も勉強になったことを教えてください。
「公共物」に対する考え方だと思います。公共物の設計は、誰もが納得できるものでないとダメなんです。先輩が良いと言うから、顧客(おきゃくさま)が良いと言うからではなく、誰もが良いと思えるもの。そういう設計をするには、「自分はこう思う」という強い意志を持つことが大切ですが、それ以上に「なぜそれが良いのか」を、誰もが納得できる形で示す必要があります。それをくり返し教えられた新人時代でした。